芝浦商店会 メインビジュアル

芝浦の歴史

江戸時代から現代まで
江戸時代
自然豊かな海辺の漁村
江戸時代、芝浦は干潟であり、まだその土地すらありませんでした。『御府内備考』には「海上の番船であるとか城米引舟の役などを引き受け、海岸よりの網干城、漁村として下賜されていた」という記事が見られます。
明治時代
鉄道開通と行楽地としての発展
明治5年に新橋~横浜間に鉄道が開通すると、芝近辺は発着地も近く風光明媚な土地の将来が注目されました。温泉旅館や魚問屋から転業した活魚料理の料亭・茶店が軒を連ね、海水浴場、花火や潮干狩りなどの行楽地、花街として賑わっていきました。
大正~昭和初期
埋め立て工事と新産業の発展
明治後半から始まった東京港湾の埋め立て拡張が進んだことで芝一体の景色も急変しました。その後、関東大震災の東京復興の資材運送などで賑わい、生産業の移転や新興産業も増え、新たな街としての活気がましたようです。
戦後
芝浦花街の衰退
戦争のために、疎開、移転していた花街も戦後には復活しますが地域の建物は東京都港湾局の所轄となり、港湾労働者のための宿泊施設として管理されるようになりました。この頃から芝浦は港町の産業・住宅地へと性格を変えていくのです。
現在
高層化する建物
高度成長期に入ると木造の和風建築がコンクリートのビルへと変わり東京湾も近代化・機械化し、港町としての機能も弱くなりました。住民も郊外へと移転し、オフィス街へと変わりました。
芝浦歴史散策と文献が描く芝浦
江戸八景 芝浦の帰帆 弘化(1844~1847)頃
江戸八景 芝浦の帰帆 弘化(1844~1847)頃
名所江戸百景 芝うらの風景広重
名所江戸百景 芝うらの風景 
広重
芝浦歴史散策
歌に詠まれた芝の浦
名所江戸百景 芝うらの風景 広重
芝浦歴史散策橋また橋の街、芝浦芝浦は運河の街です。何をするにも橋を渡らなければ用足しは出来ないと云っても過言ではありません。それだけに、橋もたくさ んかかっていることから、私たち地元では将来「東京のベニス」にたとえられるようになればと願って、環境の美化などに努めています。では、田町駅東口、芝 浦三丁目を基点とした主な橋は、次のとおりですがいろんな橋を散策しましょう。
新芝橋(新芝運河) 芝浦3丁目 コンクリート橋 長さ28.1m 昭和32年架設
昭和62年架替
鹿島橋 芝浦1丁目~3丁目 鋼橋 長さ36.2m 昭和5年架設
霞橋 芝浦2丁目~芝浦3丁目 鋼橋 長さ39m 昭和3年架設
芝潟橋 芝浦2丁目~芝浦3丁目 鋼橋 長さ35.5m 昭和50年架設
八千代橋 芝浦3丁目~芝浦4丁目 鋼橋 長さ28.3m 大正初期架設
平成24年架替
百代橋 芝浦3丁目~芝浦4丁目 コンクリート橋 長さ28.3m 平成2年架替
藻塩橋 芝浦3丁目 鋼橋 長さ34.8m 昭和44年架橋
平成4年架替
その他、船路橋、夕凪橋、港栄橋、芝浦橋、高浜橋、潮路橋などがあります。
新名所、レインボーブリッジ
新名所、レインボーブリッジ
東京の新しい観光名所となったレインボーブリッジ
レインボーブリッジは、東京の ウォーターフロントを象徴する近代橋として、華ばなしくデビューしました。架設場所は海岸三丁目から台場に至り平成5年夏に開通。吊橋部が長さ918m、 幅29mの鋼橋です。吊橋部は上層が首都高速、下層部が臨海道路と新交通システム(「ゆりかもめ」路線)が走るという重層構造になっています。レインボー ブリッジは宵闇迫る頃の景観が素晴らしく橋自体の絵に なる美観もさることながら、橋上からのぞむ臨海市街地の七色の灯の帯が見る者を圧倒しこれまた「100万ドルの夜景」とされています。
新東京八景 芝浦ハネ橋 昭和16年
新東京八景 芝浦ハネ橋 昭和16年
レインボーブリッジ完成記念視察・商店会、町会役員有志
レインボーブリッジ完成記念視察・商店会、町会役員有志
レインボーブリッジ開通式、御興パレード参加青年部有志
レインボーブリッジ開通式、御興パレード参加青年部有志
放送記念碑
放送記念碑(芝浦)昭和40年 放送記念碑日本初の無線放送は芝浦から発祥しました。1895年マルコニーの無線発明からわずか2年後の1897年(明治30年)12月、品川沖第五台場 と月島間、約1海里の無線実験に成功。ついで明治33年に、日本無線電信機を製作しています。大正13年11月29日に至り、社団法人東京放送局が設立さ れ、これの局舎が芝浦(現東工大附属高校内)に設けられました。実用的な成功は大正14年2月26日~3月1日のことで、これの実験放送は21日間続けら れ、3月21日に至って放送局が愛宕山へ移されたのです。現地には「放送記念碑」が建っています。(現在駅前広場整備の工事中で一時移動、平成13年に完 成予定)
レインボーブリッジ開通式、御興パレード参加青年部有志
放送記念碑 芝浦昭和40年
江戸時代の芝浦
東京名所百種 第十号 芝浦大光館眞景
東京名所百種 第十号 芝浦大光館眞景
東海道名所之内芝浦風景
東海道名所之内芝浦風景
散策の途上、江戸時代の芝浦はどんな土地であったか、文献により振り返ってみましょう。『江戸名所図会』(斎藤幸雄編、天保5~7年板行)によると、当時の 芝浦を次のように活写しています。「月に、雪に、あるひは風に、浦曲の景色、天美なるか、地美なるか、人美なるか、まことに飽きもせぬながめなり。さてい つはなけれど、夏の納涼には、尤も適した地なれど、芝といふものの候夏ざしき 梅翁」とあります。句にある「夏ざしき」からも、芝浦に梅翁(連歌師・俳人 の西山宗因の号)の時代、つまり江戸時代前期にはすでに避暑の料亭が存在したのは明らかです。
芝海老など「芝肴」の宝庫
文政年間の記録『府内備考本芝一丁 目の書上』は、芝一帯の地誌として貴重な文献ですが、その一項に次の特産物をあげています。「~当浦にて魚漁之品左の通。冬春は、貝類、鰻、夏秋は、芝海 老、こち、黒鯛、ざこ」これらの海産物は、芝浦沿いの料理屋で獲れたてのものを調理し客に供したことから、江戸前の生きのよい肴を「芝肴」と称するように なりました。芝肴のうちでも「芝海老」は珍味の一つとされ、『拾遺続江戸砂子』にも「芝海老、芝浦の名産なり、云々」とあります。
汐干景文化12~天保13年頃 (1815~1842)
汐干景文化12~天保13年頃 (1815~1842)
料亭から発展した芝浦花柳界
江戸時代、本芝一帯は漁場でしたが、明治時代に文明開化の波と閑静な浜辺を求める風潮から、芝浦一丁目、本芝二丁目の一角に小じんまりとした料亭兼芸妓屋が開業したようです。 明治5年 に新橋-横浜間の鉄道工事が完成すると、本芝から芝浦にかけて往時からの月見の名所に加え、土地の将来性に着目した業者が温泉旅館を開業するようになり、 当然それにかかわって芸妓屋も増えていきました。明治25年刊『東京名所鑑』には「海上の眺望絶佳也。殊に調理の芝魚新鮮なり」とほめあげています。芸妓 屋といえば、主役は芸者です。 明治中頃まで、芝浦の料亭は芝神明から芸者を呼び寄せていましたが、この不便さを解消しようと、地元に芸妓屋を置くことで 募集を始めました。当時の芝浦は物見遊山の客で賑わっていたので、芸妓屋開業の希望者が集まり、まもなく明石屋・松本屋・蔦屋滝の屋・江戸屋・寿々川・三浦屋などが本芝一丁目に御神灯を掲げることになりました。 明治43年版『芸妓名簿』によると、芸妓屋28軒、大芸妓70名、小芸妓11名、待合茶屋20 軒を数えています。
芝札船遊図 明治13年(1880)橋本週延
芝札船遊図 明治13年(1880)橋本週延
江戸の花名勝会<br>芝札の辻捕 元治元年(1864)<br>三代豊国 三代広重
江戸の花名勝会
芝札の辻捕 元治元年(1864)
三代豊国 三代広重
地元発展に寄与した二十六日待ち
二十六 日待ちは江戸時代の海浜地帯に伝わる俗信で、芝でも高輪海岸で行われました。これは、陰暦の7月26日夜半に、海上に月の出を迎え拝む行事で、月と共に弥陀・観音・勢至の三尊も現れ功徳を施してくれるというもの。『江戸名所図会』には、二十六日待の人出で賑わう情景がよく描かれています。人が集まる所には 茶店や飲食店が現れ、ついで遊興の施設も出来ます。遊船も出て活況を呈したようですから、この信心行事が地元発展に寄与したこと少なからずでしょう。この風習は明治の中頃まで続いたようです。
開化三十六会席 芝口いせ源 明治11年(1789) 豊原国用
開化三十六会席 芝口いせ源 明治11年(1789) 豊原国用
ロシアの捕獲船、ロセッタホテルに
ロセッタとは元ロシア輸送船 (3.875t)の名前で日露戦争で戦利品として捕獲したものです。輸送船としてはもう使えない状態であったため、主要機関を解体し、船体だけを芝浦岸壁に曳行して、ホテルとしてリサイクルさせたのです。海上のホテルということで、物珍しさから好事家などが絶えず宿泊したのもつかの間のこと、やがて交通不便から訪れる人も少なくなり、数年後には閉鎖。その後、第1次世界大戦のさなかにロセッタも応召され、その姿を消しました。
ロセッタホテル
ロセッタホテル
「ロセッタホテル」元ロシアの捕獲船
「ロセッタホテル」元ロシアの捕獲船
有名海水浴場としての芝浦海岸
往時の<芝浦海水浴広告>より芝浦の海水浴場は海浜にして
眺望絶佳古来観月の勝地として稲せらる。

芝浦の海水浴場は新鮮なる空気の流通宜しきを以て養生には適当の処なり。

芝浦の海水浴場は御望みならば料理をも取寄差上申すべし。

芝浦の海水浴場は浴場を
上等と並とに区別し浴客の便利に供す。

芝浦の海水浴場は旅館も兼業なれば滞留御養生の便利あり万事御手軽を専一とす。

芝浦の海水浴場は外人常に来浴し賞賛して
日欧米諸国に於て海水浴場流行すれども
此の如き好地に設けある浴場は甚だ稀なりと。
江戸十二景 芝浦曙 歌川広重 『東京百年史』より
江戸十二景 芝浦曙 歌川広重
『東京百年史』より
地元の名を広めた芝浦製作所
獅子文六『ちんちん電車』より
芝浦製作所は、今の東芝の前身だがずいぶん小さな工場で四角い赤レンガの煙突が立っていたように思う。そして、側を通ると、いつも中で赤々と、焔が燃えていた。また、東京ガスのタンクも、ここにあったように思う。芝浦製作所の赤レンガは、ずいぶん長い間、汽車の車窓から望むことができた。作業をしなくなって も、まだ残っていた。あの会社が大きくなったので、記念建築として、残して置くのかと、思ったほどだが、いつか、忽然と消えてしまった。
芝浦製作所 昭和40年
芝浦製作所 
昭和40年
南極探検 について
南極探検 について
南極探検隊
1911年末、世界的快挙のビッグ ニュースに扱われたのが、ノルウェー人口アルド・アムンゼンの南極行でした。この壮挙と時を同じくして、わが白瀬中尉がロス海を南進し、付近の氷原に「大和雪原」と名付けて帰還した事実は、世界的には隠れたニュース扱いになってしまいました。しかし、試練の偉業であることに両者なんら変わりはありません。  広瀬中尉ら一行が出発したのも、無事帰還したのも、ほかならぬ芝浦だったのです。それを記念した碑が、昭和11年12月20日に海岸3丁目埠頭公園に建てられました。
南極探検記念隊碑
南極探検記念隊碑
芝浦はプロ野球の発祥地
わが国初めてのプロ野球の発祥地が芝浦であることは、あまり知られていません。 大正9年12月、芝浦野球協会は埋立地にあった球場を本拠にして、初めてのプロ野球として誕生しましたが、「野球を仕事とし金銭を稼ぐなど、スポーツに対する冒涜である」という無理解な世論の攻撃にあって、発足時は難行苦行の連続でした。ついに世論に屈し、チーム球団は学生野球の育成に転じて、やがて解散の憂き目にあいます。 昭和9年12月に大日本東京野球クラブが誕生するまで、プロ球団は尻切れトンボのまま存在しませんでした。
高浜公園(芝浦4丁目3-20)
散策で疲れた足を高浜公園のベンチでいやし、千秋楽としましょう。 公園のすぐ横を、東海道新幹線が矢のように走り去ります。1世紀少々以前、海岸を黒煙吐き散らしながらゆったり走った東海道線や高輪鉄道からみて、時代の移り変わりの重みをひしと感じることでしょう。 公園中央の築山には、生きている化石といわれるメタセコイアの植樹が高々とそびえ立っています。芝浦では人工の高層ビルだけが名物ではない、自然の偉大さも育まれている…と訴えるかのように。
高輪鉄道より汐留鉄道一覧の図 明治五年(1872)昇斎一景
高輪鉄道より汐留鉄道一覧の図 明治五年(1872)昇斎一景