ホーム > 芝浦の歴史 > 文献が描く芝浦

文献が描く芝浦

芝浦 本芝町の東の海浜をいふ。芝口新橋より南、田町の辺迄の惣名(そうみょう)なり。上古は芝を竹柴の郷(がう)といひしを後世上略して柴との呼来(みよびきた)れり。又文字も芝に書改めたりとぞ。此地を雑魚場(ざこば)と号(なづ)け、漁猟(ぎょれふ)の地たり。
此海より産するを芝肴(しばざかな)と称す。
――江戸名所図会

ざこば雑魚場 芝の海浜のぎょし漁師町也。日々に漁して市に出す。
――東海道名所図会

芝浦の海  安房(あはかづさ)上総を望み 右に羽田の森幽(かすか)にて、遠く見ゆる白帆のさま 月雪にまず絶景なり。沖より陸(くがち)地を観たるさまなり。
夏の末より秋にいたす釣する小舟(おぶね) 日毎に絶ず諸国の入船出る船 実(げ)に繁昌を現はせり
――絵本江戸土産

芝浦海岸 春は汐干狩を以て名高く、夏は暑(しょ)を避くるに適す。浜海に竹芝館(海水浴)芝浜館(鉱泉)見晴亭(料理)大光館(料理)
大の屋生洲(料理)松金(鰻屋)等の浴棲水亭等あり。
――東京案内

  芝浦の埋立地 現在東京市内の閑地(あきち)の中でこれほど広々とした眺望をなす処はた他にあるまい。夏の夕(ゆうべ)、海の上に月の昇る頃はひろびろし た閑地の雑草は一望煙の如くかすみ渡つて、彼方此方(かなたこなた)に通ずる堀割から荷船の帆柱が見える景色なぞまんざら捨てたものでない。
――日和下駄


>芝浦も、東京湾となつて面目を一新、もはや(人情噺芝浜の)「革財布」の俤は更にない。芝橋付近に往年の芝浜のけしきがかすかにのこっている。
――芝居名所―幕見

田 町駅北側、田町ビルわきの舟だまりを雑魚場(ざこば)という。いまは埋立てられたが、この間まで入江に小舟が浮んでいた。冬の朝、浜は、ノリの干し場に使 われた。水を含んだノリのおもてに、朝日の輝いている情景が、国電車内からよく見えた。江戸時代から残る、ただ一つの海岸線でもあった。入江は、しかし年 ごとにドブ池となり、ノリの漁場は沖へ遠のいた。鹿島神社境内はアパートの窓と窓に取囲まれたが、横町には貝がらがたくさん落ちている。
――東京新誌
芝浦の汐干
芝浦の汐干 明治40年(1907) 寺崎広業
新撰の酒楼
明治三十三年 新撰東京名所図会 芝浦の酒楼

しばうら 芝浦 (港区)

芝ノ浦ともいう(廻国雑記)。東京湾の港区側一帯を示す広域称。文明18年の「廻国雑記」に「芝の浦といえる所にいたりければ、塩屋の煙うち靡きてものさびしきに 塩木運ぶ船どもを見て、やりぬよりもしほの煙名にぞたつ舟にこりつむ芝の浦人」とある。芝は中世から江戸湾の重要な湊で、戦国期には小田原北条氏の水軍の一拠点であった。江戸期は芝浦の名称は「本芝町の東の海浜をいう。浜口・新橋より南、田町のあたりまでの惣名なり」とあり、雑魚場と号して漁猟の地であった。ここでとれた魚は芝肴と称して、江戸市中へ出回った。明治5年、芝浦海岸沿いに東海道線が開通した際、海岸線を通るため埋立が始まり、現在は旧海岸線は
一面住宅地と工場が入り混じる地域に変貌した。
――角川日本地名大辞典
文明開化の明治時代芝浦の海は行楽の地として市民に親しまれにぎわったようである。当時流行の温泉旅館が軒をならべ月見の眺望地として、また海水浴の名所として知られた。明治25年の東京名所鑑に眺望絶佳、芝魚新鮮なりとあるが、あながち誇張ばかりでもなさそうである。
芝浦海岸の汐干狩
芝浦海岸の汐干狩
新撰東京名勝画譜
新撰東京名勝画譜芝浦 明治41年(1908)尾形月耕
表紙の絵に見る見はらし亭ほかの料亭群の状況は明治35年のものであるがそのころの芝浦の海を知る貴重な資料といえよう。東海道線が走り、その東側の様子がよくうかがえる。この場所は今の東京港口付近と推定されるが、わずか五十数年の間の変遷まことに今昔の感にたえない。
――芝浦一丁目町会会員名簿「芝浦の歴史」

芝浦一丁目

 本町は東海道線を西に、鹿島橋際 の汐入と古川の下流を南北の境界とし、東に淀む運河を以って限られてゐる。昭和十一年一月一日金杉新浜町及び南浜町の一円、之に接する金杉川口町、金杉浜 町、本芝一丁目の一少部分と本芝二丁目及び四丁目の官有無番地を併せて、新に生れた町である。もと芝浦の海上を埋立てゝ出来たので芝浦一丁目と名付けた。
――昭和13年・東京市芝区役所『芝区史』

芝浦二丁目

 芝浦の海上に八年間の歳月を費し て埋立てた町であり、大正八年二月竣工と同時に芝浦二丁目となった。昭和十一年一月一日町名改正の際「町」の一字を削り、芝浦二丁目となる。一丁目から竹 芝橋、香取橋を渡れば、この町へ達し、四方運河を囲らし、市電芝浦線の終点地である。工場、倉庫等多く殊に自動車工場が著しく眼につく。街衢はよく整ひ埋 立地中、海岸通二丁目と共に最も発展してゐる。
――同上

芝浦三丁目

芝浦二丁目から船路橋を渡ればこ の町に達する。大正四年八月起工し、大正九年十月完成した埋立地にして、旧月見町二丁目に隣接してゐるので月見町三丁目と命名した。其後漸次発展して来た が、昭和十一年一月一日町名芝浦三丁目と改正した。主として電気局の車両工場を中心とした工場街であり、住宅は一軒もなく、従つて定住人口は僅かに一世帯 (昭和十年国勢調査)あるのみで、周囲は総て海水を湛へた運河である。
――同上

西芝浦一丁目

明治四十三年の秋、田町の海浜を埋立て、大正二年の晩秋に出来上つたのがこの町である。我が芝に生れたこの新しい土地に翌三年五月其名も新芝町と名付け、昭和十一年元旦町名改正の時、本芝四丁目、田町一、二、三、四、五丁目に接する官有無番地を併せて西芝浦一丁目とした。東海道線を背後に、三方は運河に包まれ、索漠とした倉庫街である。
――同上
芝浦の月
芝浦の月 大正初期頃 山本昇雲